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玉鋼アクセサリーに込める思い 奥出雲に宿る願いを身に付ける

玉鋼アクセサリーに込める思い 奥出雲に宿る願いを身に付ける

TRAVEL 2024.04 奥出雲特集

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「約1400年も前から存在するたたら製鉄が、今もこの地には残っています。玉鋼を生み出す職人さんたちはやけどを負いながら、懸命にたたらと向き合っている。歴史や伝統、たずさわっている方々の思いが、もっとたくさんの人に広まってくれたら」

手のひらに乗る玉鋼を見つめながら、アクセサリー作家の磯田菜保子さんは、穏やかな口調で語る。

現在、奥出雲町では、「奥出雲たたらブランド」と題して、玉鋼を使用したさまざまな製品を発信する。日本刀はもちろん、小刀や包丁、鉄扇といった工芸品が並ぶ中、異彩を放つ製品がある。イヤリング、ネックレス、ピンバッチ――玉鋼の美しさと力強さを宿したアクセサリー類だ。

「私は、出雲市出身。島根らしいアクセサリーを作りたいと思っていました」(磯田さん、以下同)

上京後に専門学校でデザインを学んだ後、地元の島根に戻り、松江市のアクセサリーショップで販売員をしていた。“島根らしさ”を求め、出雲民藝紙(和紙)を使用したアクセサリーなどを作る中で、たたら製鉄によってつくられる玉鋼の魅力に引き込まれたという。

「私の母親が奥出雲の生まれでした。玉鋼のアクセサリーをつくりたいと考え、町が主催する商品企画のワークショップに『玉鋼のネクタイピン』を提案してみたのですが、上位3人にも入ることができませんでした。もう、どれだけ悔し涙を流したか(笑)。でも、諦めきれなくて、思い切って母と祖母が暮らす奥出雲に移住したんです」

どうしても思いを形にしたい――。地域おこし協力隊として活動する中、草の根で玉鋼アクセサリーの構想を刀工などに伝えていった。だが、想像以上にその道のりは険しかったと、磯田さんは苦笑交じりに話す。それもそのはずだ。玉鋼は、全国約250人の刀工のためにつくられる。小刀や包丁、鉄扇は、刀工がつくり出しているもの。関係者以外、門外不出の原料。玉鋼は、誰もが扱えるというものではなかったのだ。

曽祖父が村下 たたらは自身のルーツ

玉鋼を語るとき、そこにはドラマがある。磯田さんも例外ではなかった。

「私の曽祖父が、櫻井家が営むたたら製鉄の村下(むらげ)だったんです」

櫻井家は、田部家、絲原家とともに「たたら御三家」と呼ばれるほど、奥出雲地方で強大な影響力を持つ鉄師だった。曽祖父の時代は、まだ洋鉄が流入する前の時代だろうから、おそらくは鉄師が活動する最後の時代。櫻井家を支えた村下の一人の血を受け継ぐ――。

一人の刀工が理解を示し、玉鋼を譲ってもいいと名乗り出たことで、磯田さんは念願だった玉鋼のアクセサリーを制作するようになる。“一念岩をも通す”ならぬ、“一念玉鋼をも通す”だ。

「当初は、玉鋼でアクセサリーをつくることに対してハレーションもありました。でも、私は絶対にブレないと決めました。自分のルーツでもあるたたら製鉄の素晴らしさを、私にしかできない形で発信していきたかった」

その思いは徐々に広がり、今では奥出雲町にある「絲原記念館」内にあるカフェ「茶房十五代」でも、磯田さんのアクセサリーは販売されている。玉鋼は、時代を越え、今を生きる者たちを引き合わせる。 

「女性だけではなく、最近では男性の方が購入されるケースも目立っています。取れてしまうのでは? と懸念される方もいらっしゃいますが、強度は問題ありません。アクセサリーをつくる際は、鉄用の特殊な接着素材や樹脂を用いた上で、デザインも設計しています。万が一、取れてしまったら、私が直します(笑)」

いろいろな人の思いが宿った玉鋼を身に付ける。なんて特別なアクセサリーだろう。ダイヤモンドやサファイヤは地球がつくり出す。しかし、玉鋼は英知を知る人間にしかつくれない。

「玉鋼を身近なものとして感じてほしい」

磯田さんが優しく笑う。先人が作り出した玉鋼は、現代の人々の思いによって進化する。

写真 久保田光一
取材・文 我妻弘崇

<奥出雲への翼> 奥出雲へは東京(羽田)などからANA便で米子鬼太郎空港へ。空港から「日刀保たたら」までは車で1時間30分。

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