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戦国大名・尼子氏の繁栄と興亡 力支えた要塞「月山富田城」を眺む

戦国大名・尼子氏の繁栄と興亡 力支えた要塞「月山富田城」を眺む

TRAVEL 2024.04 奥出雲特集

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願わくば、我に七難八苦を与えたまえ――。尼子氏の繁栄と再興を夢見た山城

山陰山陽十一州を従えた戦国大名「尼子氏」。のちに中国地方の大大名となる毛利元就も、もとは尼子氏の傘下であり、 尼子氏の力は絶大だったと言われる。

尼子氏の繁栄を支えた要因の一つが、たたら製鉄だった。尼子氏は広大な領地でたたら製鉄を行い、戦国時代の日本の鉄生産量の約8割を産出していたと言われる。財となり、武具となる鉄を手中に収めていた尼子氏。その本城が、難攻不落とうたわれた月山富田城だった。

標高約190メートルの月山山頂に主郭部を設け、尾根上には大小さまざまな曲輪を配置。約1km四方にも及ぶ城郭を誇り、複郭式山城としては国内屈指の広さを持つ。

上空から眺めると、要塞のようなたたずまいが分かるだろう。城跡となった今では、ふもとから本丸(山頂)まで歩いて30分ほどで行くことができるが、戦国の世、一兵卒の気持ちを想像すると気が遠くなる。歴代城主が信仰した勝日高守神社の鳥居、晴れた日には日本海、島根半島が見通せる。

尼子氏は、たたら製鉄で財をなすだけではなく、銀山と港を支配することで、その権力を絶対化していく。月山富田城の茫洋(ぼうよう)とした風格は、君臨という言葉が相応しく、訪れるものを飲み込むような妖しさがある。

その権威に、反旗を翻したのが毛利元就だった。1565年(永禄8年)、総攻撃を仕掛けると尼子義久は毛利氏に降伏し、月山富田城を明け渡すことになる。この城は、中国地方の覇権がパラダイムシフトしたことを告げる舞台でもあるのだ。

没落した主家・尼子氏を再興しようと奔走した武将がいた。「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」。山中鹿之助(山中幸盛)である。尼子十勇士の筆頭格として、故城である月山富田城の奪回を試みるも敗走。織田信長の援助を得るも尼子再興の夢はかなわず、 山中鹿之助は30代にして、散った。

月山富田城は、足立美術館から車で5分ほどの距離にある。「日本名城100選」に選ばれるだけでなく、「日本五大山城」にも選ばれる名城(跡)。鉄が富をもたらし、鉄を求めて干戈を交える。日本にも、エル・ドラードがあったのかもしれない。

月山富田城跡

島根県安来市広瀬町富田

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<奥出雲への翼> 奥出雲へは東京(羽田)などからANA便で米子鬼太郎空港へ。空港から「日刀保たたら」までは車で1時間30分。

写真 久保田光一
取材・文 我妻弘崇

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