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翼と見る夢 「夜明けの大聖堂」 是枝裕和(映画監督)

翼と見る夢 「夜明けの大聖堂」 是枝裕和(映画監督)

CULTURE MOVIE

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サン・フランチェスコ大聖堂(イタリア:アッシジ) 写真:アフロ

 初めて飛行機に乗ったのは25歳の時だった。アリタリア航空。テレビの番組制作を始めて間もなく1年。自ら書いた企画書のアイデアが採用され、放送されることになった。毎週放送のクイズ番組だったし、もちろん何のキャリアもない僕はアシスタント・ディレクターというポジションだったけれど、さすがに胸が躍った。

 企画書は、中世イタリアにおける最も著名な聖人のひとり、「アッシジの聖フランチェスコ」についてだった。出会いは中学生の時にさかのぼる。当時、自宅のテレビで映画を観ることは映画好きの母の影響もあって習慣になっていた。そこでフランコ・ゼフィレッリ監督が撮った『ブラザー・サン シスター・ムーン』という、聖フランチェスコの半生を描いた映画を観た。

 「ブラザー・サン シスター・ムーン」とは、華美な教会の中ではなく、太陽を兄弟に月を姉妹に生きようと、信仰の原初の形への回帰を訴えた彼自身の言葉だ。今振り返ってみて映画として優れているかどうかはともかく、当時の僕にとっては愛読していた宮沢賢治と同じくらい、価値観を大きく揺さぶられる作品だった。以来、映画館でリバイバル上映があれば駆けつけ、雑誌『ロードショー』のページを切り抜いてファイルに入れ、部屋にポスターを貼り、宗教にはまったのではないかと周囲から心配された。

 番組のメインテーマは放送が2月ということもあって、主役はチョコレート。つまり聖バレンタインであって、聖フランチェスコはほんの1コーナーの扱いだった。それでも夢にまで見たアッシジを訪れるというだけで、何だかすでに夢が叶ったような気がしていた。

『ブラザー・サン シスター・ムーン』 フランコ・ゼフィレッリ監督(1972年)
写真:Album/アフロ

 しかし、この撮影には思いもよらないアクシデントが次々に襲いかかった。まず、担当ディレクターが前の番組の仕上げが間に合わず、「ロケハンは是枝君ひとりで行ってきてよ」ということになった。びっくりした。だってこのクイズ番組は当時会社の売上の3分の1を占める人気番組で、ゴールデンタイムの放送だ。かくいう僕はまだ新入社員の配属として参加したばかりの下っ端。企画の一部が採用されたからとはいえ、それは無謀というものだ。と、内心はそう思っていたのだけれど、東京にいたらいたで「無能だ」「使えない」「暗くなる」という、今だったら人格否定のハラスメントで一発レッドカードのような言葉を連日連夜浴びせられていたので、それよりはまだましか、もうなるようになれと、僕は飛行機に飛び乗った。

 到着した空港がローマだったかミラノだったかもはっきりしないのだが、僕は迎えに来たイタリア人ドライバーと日本人のコーディネーターの女性と車に乗り、ひたすら北へ北へと移動した。それまでロケハンの経験がなく、いったい何をどの程度準備したらいいのか皆目わからないまま1週間ほどの旅を終え、「あとは撮影で」と挨拶して東京に戻った。覚えているのは、機内食で出されたラザニア(当然エコノミークラス)が抜群に美味しかったことと、イタリア人スタッフはどんなに予定が詰まっていても食事を短く切り上げてはいけないという教訓を得たことくらいであった(「移動の車内で食べるサンドイッチなど食事とは呼ばない」と叱られた)。

 その後、ミステリーハンターと呼ばれていたレポーターさんとディレクター、カメラマン等と一緒に再び本番のロケに再訪した時、コーディネーターの女性はすでに会社を辞めており(上司と喧嘩をしたらしい)、ドライバーはお母さんが亡くなったと連絡が入ってロケ2日目にローマに戻ってしまった。誰に文句を言うわけにもいかないこの事態で、初対面のドライバーは道に迷い、遅れて取材先に到着すると「今シエスタ中」と門前払い。ロケハンで約束した準備はほとんどできておらず、「いったいお前は1週間何をしていたのだ」という冷たい視線を浴び続けることになる。今思い出しても人生、下から3番目くらいに辛い経験だったのだが、これをワーストワンに選べない出来事が実は僕を待っていた。

 胃の痛くなるような撮影が終わっていったんホテルに戻ったあと、深夜のアッシジの街に僕は散歩に出た。目的地があったわけではない。しかし、とにかくひとりになって昼の撮影の辛さを忘れたかった。歩いていたら声を掛けられた。青年だった。大学生だろうか。イタリア語はまったくわからない。でもきっと「どっから来た?」「何しに?」と訊いているのだろうと思って、「フロムジャパン」「ジャポネーゼ」「シューティング」と身振り手振りで答えたら、何となく伝わった。

 にわかに自信を深めた僕は、「自分は映画が大好きで、中でもイタリア映画が好きなんだ」と話した。キョトンとしているので、ゼフィレッリの名前と『ブラザー・サン シスター・ムーン』というタイトルを告げた。駄目だ、通じない。仕方なく、映画の中でドノヴァンという歌手が歌っていたテーマ曲を口ずさんだ。やはり駄目だった(音痴だからだろうか。無理して歌わなきゃよかった)。

 自分の家へ帰るのだろう、彼は分かれ道まで来て、手を振った。僕は彼に「ソーニョドーロ」とイタリア語で声をかけた。これはあるテレビドラマの中でイタリアを旅する主人公が口にする別れの言葉、「黄金の夢を」という意味だ。日本語だったら絶対に口にできないだろう。しかし通じなかったのか、やはり一言も発さずに彼は暗闇に消えていった。寂しかった。このままではホテルに帰れないなあと思い、僕はさらに街を歩くことにした。こうなったら夜明けをフランチェスコ大聖堂の前で迎えてやれと、街の道路標識を頼りに坂を登った。辿り着いた大聖堂は高台にあって、吹き抜ける風が凍るほど冷たかった。

 何時頃だったか、ようやく空が少しずつ白み始め、大聖堂の輪郭がくっきりと藍色の空に浮き上がった。その時、眼下に広がる街一面にたち込めていた霧が少しずつ薄くなり、その覆いの隙間から石造りの建物や、小さな教会や塔が姿を現し始めた。自分が空の上にいて、雲間から街を見下ろしているような錯覚をおぼえた。何の信仰もない僕でさえ、この風景には人智を超えた存在を感じざるを得なかった。救われた、と思った。来てよかった、と、そう思った。

 あんまり感動したものだから、カメラマンに無理を言って翌朝、霧の立ち込めるアッシジの夜明けの風景を撮影してもらった。この時の画はそれはそれで美しかったのだけれど、ただそれだけだった。前日にひとりで凍えながら見たものとはまったく別物だった。

 カメラでは撮れないものがあるのか?

 そんな本質的な問いが、自分の中に深く刻まれた。

 この出来事から35年が経った。その間に数えきれないくらいたくさんの飛行機に乗って、50近い国々を訪れたけれど、いまだにこの初体験を超える風景とも、あの時のラザニアを超える機内食とも出合えていない。

文/是枝裕和

1962年、東京都出身。95年、『幻の光』で映画監督デビュー。2004年、『誰も知らない』でカンヌ国際映画祭「最優秀男優賞(柳楽優弥)」、13年の『そして父になる』で同映画祭「審査員賞」、18年の『万引き家族』で同映画祭「パルム・ドール」を受賞。脚本家・坂元裕二との初タッグとなった『怪物』が6月2日より全国公開。