秘境に降りる「穴」から考える地球環境〜豪州凝縮WESTERN AUSTRALIA-2
オーストラリアを最初に発見したのは、「1606年にオランダの探検家がオーストラリアの北部海岸に到達した」とされている(15世紀に、ポルトガルの探検家ペドロ・アルヴァレス・カブラルが、オーストラリアの西部海岸を航行したという説もあるが、記録が残っておらず確実なことはわかっていない)。しかしここでいう「発見」とは、欧米人にとってのもの。オーストラリアに最初に上陸したのはアボリジニの人々であると考えられているし、実際、彼らは約6万年前からここで暮らしている。
かつてオーストラリアとニューギニア、タスマニアは陸続きの大陸であった。アボリジニの祖先は、大陸の外からカヌーで海を渡って、現在のオーストラリアに到達したと考えられている。
アボリジニの人々は、オーストラリア全土に広がって狩猟や採集によって生活を営んでいた。だがしかし、1770年にイギリス人がオーストラリアに到達して以降、ヨーロッパ人との接触によって伝統的な生活様式を失い人口も激減。現在、オーストラリアには約65万人のアボリジニの人々が、独自の文化や言語を守りながら、オーストラリア社会の一員として生きている。
「1492年コロンブスにより発見!」などとされている、「発見年」ものの多くは、他所から来た人々による「発見」。以前からそこに住んでいる人々にとっては発見でもなんでもなく、日常的に普通に昔からあるもの。それを「発見」などといわれても、なんだかなぁ…に違いない。
因みに、オーストラリアのアイコンであるエアーズロック。この名前の由来にも「発見」が絡んでいる。1873年にオーストラリアの探検家ウィリアム・ゴスがこの岩を発見した際、当時の南オーストラリア植民地首相ヘンリー・エアーズにちなんで命名されたもの。
砂漠の真ん中に鎮座する世界最大の巨大な一枚岩にぶつかる風の音を「エアー」と評して付けられた名前だ、と信じていた自分。事実を現地で知ったときのショックは今でも忘れない。※ オーストラリア政府がアボリジニの人々の文化や伝統を尊重する観点から、1995年にエアーズロックの名称を「ウルル」(アボリジニの言葉で「偉大な石」)と正式に変更されている。
今回取材したジュエル・ロックもそう。1957年にクリフ・スパックマンらが地面の小さな空気が吹き出している穴に遭遇。掘り進めたことで発見(1959年より一般公開)…と記録にある。しかしこれは「発見」ではなく、二人がその存在に「気がついた」だけのこと。アボリジニの人々の間では、以前から地下から風が吹き上がるこの穴の存在は知られていた。ただ、その穴から地底に降りていくための穴を掘る勇気がなく、(加えて自然への畏敬の念みたいなものがあり)、敢えて掘らなかったというのは想像に難くない。
でもクリフ達は掘った。それは人間本来の好奇心と冒険心と探究心と、そして「俺が最初に見つけたんだぞ」という、少しばかりの功名心もきっとあったと思う。で、掘ってみたらそこには広い空間が広がっていた。ランタンで中を灯すと、そこはまさに「宝箱」のような美しい空間。素晴らしい「発見」を成し遂げたのだ。
さらにここ数年で新たな発見がある。発見というより気づきといってもいいかもしれない。クリフらが発見した当時、洞窟の底に流れていた川が消えているのだ。当時の写真にはカヌーに乗って洞窟の様子を調査する様子が残っている。それが今は1ミリもない。すべて蒸発している。いや洞窟の中なので蒸発ということはありえない。ではどうして消えたのか?
その答えは、正直なところ「これ!」という原因はわかっていないらしい。しかしながら、人が増えたことでそれまでほぼ手つかずだった自然の姿が変化したことや、木材産業による森林伐採、焼き畑などの影響ではないかというのが大方の意見。人間の好奇心は土地や島だけでなく、たくさんのものを「発見」したり、「発明」しながら進歩してきたのは確かなこと。しかしその裏で失ってしまった(いやある種の破壊といってもいいかもしれない)ものも少なくないのも確か。
「発見」したのは後から来た人々だが、その姿を変えてしまったのも後から来た人々。であるなら、再生するのも後からきた人々でなくてはならないのだ。…と、そんなことを水の枯れてしまったジュエル・ケーブの谷底で考えた。
写真・文:山下マヌー