玉鋼アクセサリーに込める思い 奥出雲に宿る願いを身に付ける
「約1400年も前から存在するたたら製鉄が、今もこの地には残っています。玉鋼を生み出す職人さんたちはやけどを負いながら、懸命にたたらと向き合っている。歴史や伝統、たずさわっている方々の思いが、もっとたくさんの人に広まってくれたら」
手のひらに乗る玉鋼を見つめながら、アクセサリー作家の磯田菜保子さんは、穏やかな口調で語る。
現在、奥出雲町では、「奥出雲たたらブランド」と題して、玉鋼を使用したさまざまな製品を発信する。日本刀はもちろん、小刀や包丁、鉄扇といった工芸品が並ぶ中、異彩を放つ製品がある。イヤリング、ネックレス、ピンバッチ――玉鋼の美しさと力強さを宿したアクセサリー類だ。
「私は、出雲市出身。島根らしいアクセサリーを作りたいと思っていました」(磯田さん、以下同)
上京後に専門学校でデザインを学んだ後、地元の島根に戻り、松江市のアクセサリーショップで販売員をしていた。“島根らしさ”を求め、出雲民藝紙(和紙)を使用したアクセサリーなどを作る中で、たたら製鉄によってつくられる玉鋼の魅力に引き込まれたという。
「私の母親が奥出雲の生まれでした。玉鋼のアクセサリーをつくりたいと考え、町が主催する商品企画のワークショップに『玉鋼のネクタイピン』を提案してみたのですが、上位3人にも入ることができませんでした。もう、どれだけ悔し涙を流したか(笑)。でも、諦めきれなくて、思い切って母と祖母が暮らす奥出雲に移住したんです」
どうしても思いを形にしたい――。地域おこし協力隊として活動する中、草の根で玉鋼アクセサリーの構想を刀工などに伝えていった。だが、想像以上にその道のりは険しかったと、磯田さんは苦笑交じりに話す。それもそのはずだ。玉鋼は、全国約250人の刀工のためにつくられる。小刀や包丁、鉄扇は、刀工がつくり出しているもの。関係者以外、門外不出の原料。玉鋼は、誰もが扱えるというものではなかったのだ。
曽祖父が村下 たたらは自身のルーツ
玉鋼を語るとき、そこにはドラマがある。磯田さんも例外ではなかった。
「私の曽祖父が、櫻井家が営むたたら製鉄の村下(むらげ)だったんです」
櫻井家は、田部家、絲原家とともに「たたら御三家」と呼ばれるほど、奥出雲地方で強大な影響力を持つ鉄師だった。曽祖父の時代は、まだ洋鉄が流入する前の時代だろうから、おそらくは鉄師が活動する最後の時代。櫻井家を支えた村下の一人の血を受け継ぐ――。
一人の刀工が理解を示し、玉鋼を譲ってもいいと名乗り出たことで、磯田さんは念願だった玉鋼のアクセサリーを制作するようになる。“一念岩をも通す”ならぬ、“一念玉鋼をも通す”だ。
「当初は、玉鋼でアクセサリーをつくることに対してハレーションもありました。でも、私は絶対にブレないと決めました。自分のルーツでもあるたたら製鉄の素晴らしさを、私にしかできない形で発信していきたかった」
その思いは徐々に広がり、今では奥出雲町にある「絲原記念館」内にあるカフェ「茶房十五代」でも、磯田さんのアクセサリーは販売されている。玉鋼は、時代を越え、今を生きる者たちを引き合わせる。
「女性だけではなく、最近では男性の方が購入されるケースも目立っています。取れてしまうのでは? と懸念される方もいらっしゃいますが、強度は問題ありません。アクセサリーをつくる際は、鉄用の特殊な接着素材や樹脂を用いた上で、デザインも設計しています。万が一、取れてしまったら、私が直します(笑)」
いろいろな人の思いが宿った玉鋼を身に付ける。なんて特別なアクセサリーだろう。ダイヤモンドやサファイヤは地球がつくり出す。しかし、玉鋼は英知を知る人間にしかつくれない。
「玉鋼を身近なものとして感じてほしい」
磯田さんが優しく笑う。先人が作り出した玉鋼は、現代の人々の思いによって進化する。
磯田 菜保子(Mullein)
写真 久保田光一
取材・文 我妻弘崇