ウルトラマン生みの親の実家を訪ねて 愛され続ける沖縄すき焼きの隠し味
沖縄県出身の天才脚本家がいる。金城哲夫は『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』など、円谷プロの特撮番組のメインライターとして「生みの親」とも言われ、大きな役割を果たした。37歳という早すぎる死は日本中を悲しみで包み、今も彼の活躍は語り継がれる。
金城哲夫氏は沖縄から上京して玉川大学卒業後、25歳という若さで円谷プロの企画室長のポジションとなり、数々の名作を生みながら一生分といっていいほどの仕事量をこなし功績を残した。のちに円谷プロを退社し、沖縄に帰郷して活動。実家は「松風苑」というすき焼き店で、生前、哲夫氏は松風苑の離れの2階を書斎にし、執筆に励んでいたという。
没後は、多くの東京・沖縄の関係者やファンがその書斎を訪ねた。松風苑では、故人を偲び功績を伝える場を残すため、書斎を「金城哲夫資料館」として今も保存している。執筆のために使っていた机・本棚・書籍・台本などがそのまま残され展示され、見学することができるのだ。書斎に入るとなぜだか懐かしいような、タイムスリップした気分になる。
亡くなった日の朝のことを、実弟の金城和夫さんは今も昨日のことのように語る。
「酒に酔った状態で、書斎に窓から戻ろうとした哲夫は足を滑らせて転落しました。そのあと現場の兄を見た私の記憶には、今でも鮮明にその姿が焼き付いています。受け身をとれず、頭から落ちたんですね。脳挫傷でした。それから5日くらいは哲夫が病院で眠っていましたから、家族は祈る思いで見守りました。あまりにも若い死で、本当に信じられませんでした。
兄との思い出としては、亡くなる寸前に、私たち兄弟と自分たちの妻、子どもたちの2家族で九州旅行をしたのが今もいい思い出ですね。
その頃の沖縄での哲夫の活動は、地元の役者の生活を心配して沖縄芝居の脚本を書き、芝居の場を作っていました。沖縄の方言なども使われた作品でしたね。直木賞の沖縄出身第一号をとりたいという意志も聞いていました。テレビ・ラジオの司会、沖縄国際海洋博覧会セレモニーの企画・演出などでも活躍していました。兄は明るく豪快な性格で、リーダー気質だったと思います。」
「驚いたことに、沖縄南風原町というこんな田舎まで、今も日本、そして中国や台湾、韓国などから海外のかたも訪ねて来てくれます。兄の作品の持つ生命力を感じますね。私は9歳年が違うので、一緒に遊べる時期も限られたのですが、幼い頃、休みになると哲夫は大きなガジュマルの木の下に子どもたちを集めて、自分の作った物語を語ってやったりしていたのが印象的です。ものすごい才能がその頃からあったのかもしれません」。
弟和夫さんの話を聞いていると哲夫さんの作家としての生き様や人柄が目に浮かぶ。時を超え、国境をこえて今もたくさんの人に愛されているのだ。そうして、ここ沖縄と実家である松風苑を今日まで守ってくれているのかもしれない。
松風苑は哲夫の妻である裕子さんが後を継いだあと、現在は息子さんがその味を継ぐ。金城哲夫の作品と変わらず、沖縄すき焼きの味もまた、長年この場所で人々に愛されているのだ。
沖縄すき焼きはにんにくが入っているのが特徴。甘辛味とにんにくの香りが抜群に合って、とてもおいしい。沖縄県で肉料理を堪能するなら、このすき焼きは外せない。哲夫さんと和夫さんが育ったときからの変わらぬ味を守っているという。当時はとんでもないご馳走だったことだろう。ジューシーな肉とタレのうまみを噛みしめながら、また訪れることを誓った。
ウルトラマンというスーパーヒーローの誕生を思い、私の中にも生き続けていたウルトラマンの存在に気がついた。児童文学の歴史においてとてつもなく重要な人物がここから排出されていた。知られざる沖縄の名地は見ておく価値があり、ここのすき焼きは通いたくなるおいしさを記憶に刻んでくれる。
松風苑
金城哲夫について〈金城哲夫資料館HPより引用〉
金城哲夫は昭和13年(1938年)生まれの作家・脚本家です。現在の松風苑の代表者の実父でもあります。
東京の円谷プロで企画文芸室長を務め、初期ウルトラシリーズの制作で重要な役割を担ったことから、ウルトラマン生みの親の一人と呼ばれています。昭和44年(1969年)に沖縄へ帰郷してからも、沖縄芝居の脚本や演出、テレビ・ラジオの司会、沖縄国際海洋博の開会式・閉会式の企画など、多方面で活動しました。
周囲から更なる活躍が期待されていましたが、昭和51年(1976年)、37歳のときに事故のため永眠しました。
金城哲夫資料館
撮影 G-KEN
取材・文・編集 中野桜子