夏みかんは萩の救世主だった〜夏みかん物語1
山口県の北部に位置する萩といえば、吉田松陰、高杉晋作、そして伊藤博文に代表される長州ファイブなど、幕末から明治維新、さらには明治期にかけて活躍した偉人のイメージが強い。明治維新からほどなく、萩では日本で初めて夏みかんの経済栽培をスタート。今でも萩のまちを歩けば、いたるところに夏みかんがたわわに実り、5月上旬には白い花を咲かせて、萩のまち全体が甘く爽やかな香りに包まれる。萩は夏みかんのまちなのだ。
明治維新を機に、士族救済のために栽培がスタートした夏みかん。今では萩のシンボルに
かつて武家屋敷が並んでいた堀内地区や平安古地区を歩けば、土塀や白壁から黄金色の夏みかんの実が顔をのぞかせている。その風景は昔も今も変わらず、萩を代表する景観のひとつ。実はこの風景が形作られたのは明治維新後。江戸時代に毛利藩の城下町として栄えた萩だが、明治維新で禄を失い、生活に困窮する士族を救済する目的で1876(明治9)年から夏みかんの栽培が始まった。
夏みかんの学名は「Citrus Natsudaidai(シトラス・ナツダイダイ)」。5月に花が咲き、秋には青い実をつけ、その後次第に黄色く色づいて、翌年の初夏に旬を迎える。かつて萩の人たちは「夏橙」と呼び、「夏みかん」と呼ばれるようになったのは1885(明治18)年からだという。
「もともと武家屋敷の敷地には数本ずつ植えられていて、秋頃に大きくなる実を搾って酢として用いていました。あるとき、翌夏まで実をとらずにおくと、黄色く甘くなって食べられることがわかり、手をかけなくても大きくなることから、日本で初めて果物として大々的に栽培しようとなったのです」と萩博物館の清水満幸さん。
夏みかん栽培を勧めたのは萩藩士の小幡高政。士族救済のため「耐久社」を設立し、苗の育成や配布を行うのみならず、自ら率先して自宅の庭でも栽培。夏みかん栽培の苦労を記した「橙園之記碑」を建てた小幡の旧宅地は、現在はかんきつ公園となり、広大な敷地に柑橘類10種類約380本が植えられている。
1889(明治22)年には、夏みかんの仲買商たちは組合を作り、「長州本場萩夏蜜柑」としてブランド化。ラベルを貼り、山口県内のみならず、北九州、広島、京阪神、東京にも出荷。
「夏みかん5個が米一升分と同じ値で取り引きされ、明治30~40年代には、生産額が萩町の年間予算の8倍にまでなったとか。夏みかんの木が家に3本あれば、子どもを上級学校に通わせることができたとも言われています」
とはいえ、夏みかん栽培が主要産業として萩の経済を支えたのは1960年代まで。それ以降は、朽ちた土塀に夏みかんがぶら下がる景色が観光客に人気となり、今度は観光資源としての役割を果たすようになった。「夏みかんは、まさに萩の救世主と言えるでしょうね」
萩博物館
山口県萩市堀内355
0838-25-6447
萩のまち全体を博物館としてとらえ、保存・活用しようという新しいまち作りの取り組み『萩まちじゅう博物館』の中核施設として平成16年に開館。萩の自然や歴史、民俗、文化などあらゆることが学べる。レストランオリジナルの夏みかんソフトクリーム(350円)も人気。
https://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/