讃えられる流民文化と島酒―八丈島をいただきます-2
徳川幕府時代、八丈島には多くの流罪人が送られてきた。「島の歴史」によれば、その数1900人。現在の島の人口約7000人で考えれば、実に島の住人の約30%近くの人が外からやってきた、いわゆる“よそ者”だったということになる。「罪人」というと牢獄に入れられて暮らすというイメージがあるが、島流しとなった事自体が罰なので、島さえ出なければ、それでOK。ある意味自由を謳歌できる暮らしだったようだ。
島の住民たちも島の外からやって来る罪人は、江戸の文化や本土の暮らしぶりを運んでくる存在でもあり、「国人」と呼び、楽しく交流していたという。そんな流民が島に伝えたものの中に島酒がある。島酒というのは八丈焼酎のこと。以前から島ではドブロクが造られていたのだが、穀類をつぶして造るために食糧事情を悪化させるというので、当時幕府から醸造が禁止されていた。ところが1853年に薩摩から流されてきた宗庄右衛門が、穀類を使わずさつま芋から造る焼酎の製法を伝えた。これが島酒となり、今日まで冠婚葬祭にも用いられ、焼酎文化を島に伝えた丹宗氏の功績を讃える島酒之碑まで建てられている。
原料となるさつま芋は乾燥した気候で、砂利系の土で育てることで甘みが濃くなるといわれ、その条件に合ったのがそれまで作物を作ることに適していないとされていた八丈富士の側。そこで作られた甘くて美味しいさつま芋を使って作り始めたのが島酒=八丈焼酎。
丹宗氏の功績を讃える島酒之碑が建てられている場所は、島の観光名所の護身山公園。しかも正面入口に堂々と飾られている。島酒の碑には次のように書かれている。
「丹宗庄右衛門が流されて来た時、島では穀類から酒を造ると、飢餓を招く心配があるので、禁酒令が敷かれていた。そこで彼は穀類でない薩摩芋から造る故郷の焼酎製造法を伝えたので、酒に飢えていた島民から大変に感謝された。八丈島には現在6軒もの焼酎製送元があり、本土にまで出荷しているが、この碑はその由来を記して、流人の功流を永く後世に伝えようとしたものである」…。
「酒に飢えていた」とまで書かれた当時の島民の酒を求めるエネルギーはどれほどのものだったのか?実は栄養価の高いさつま芋は、そもそも飢餓対策として作られていた。ところが島民があまりに焼酎を飲むようになったために、食料としてのさつま芋がなくなったという話もあるほど。しかし一方、さつま芋は一年くらいで腐ってしまうので、その腐った芋を活用して焼酎を作っていたという、当時からすでにサステナブルを実践していたという話もある。
ということで、今夜も取材のお土産に持ち帰った島酒を一杯…。
取材・文・写真 山下マヌー