日本食の源流を辿る旅 金山寺味噌が生活に息づく和歌山県
かつて海上交通が盛んだった頃、三方が海に面した和歌山県は瀬戸内海と太平洋を結ぶ交通の要衝だった。よって和歌山には、海を通じて様々な文化が伝わってきた。それらをここで暮らす人々が積極的に取り入れたことにより、味噌、醤油、そして梅干しといった日本食の礎を築く食材は生まれ、発展していったという歴史を持つ。我々日本人が愛してやまない「日本の味」のはじまりの地を巡る旅に出かけてみよう。
醤油を生んだ金山寺味噌の歴史
1249年、修行のために宋(今の中国)に渡った法燈国師(ほっとうこくし)が、現地で食べた「径山寺(きんざんじ)味噌」に感動。製造方法を学び、和歌山県由良町の「興国寺(こうこくじ)」に持ち帰ったことから「金山寺味噌(きんざんじみそ)」が生まれたとされている。当初は寺の常備菜として造られていたが「おいしい」「栄養がとれる」と評判になり、周辺に広まったそうだ。
金山寺味噌は米、大豆、はだか麦の三種混合麹を漬け床にして、白瓜、丸茄子(まるなす)、生姜(しょうが)などの夏野菜を仕込み、数カ月じっくりと発酵させる、いわば「おかず味噌」である。味噌汁などに使う調味料ではなく、庶民の食卓を支える常備菜であり、冬場の保存食なのだ。野菜を漬け込むことから水けが多いのが特徴だが、当初、この水分はカビの原因になるとして捨てられていた。だが、味見してみたところ美味だったことから、改良を重ね醤油へ姿を変えていったという歴史を持つ。そう、金山寺味噌は、醤油の母といえる存在なのだ。
和食の礎を築いた町に流れる 途切れない時間
金山寺味噌を“生んだ”「興国寺」から車を30分ほど走らせた場所にある湯浅町には、江戸時代から、金山寺味噌や醤油を造り続ける蔵が現存している。上質で清らかな地下水、そして温暖な気候が、味噌、醤油という日本料理に欠かすことのできない発酵食を生み、現代にいたるまで、伝承し育ててきたのだろう。重要伝統的建造物群保存地区に選定されたこのエリアを歩くと、日本の古き良き食文化の源流に触れられるはずだ。和食の礎を築いた町の途切れない時間の豊かさを感じてみよう。
興国寺は鎌倉幕府三代将軍・源実朝が暗殺された後、家臣・葛山景倫がその菩提を弔うために創建した「西方寺」が前身。その後、宋から帰国した覚心が禅宗に改めた。秀吉による紀州攻めにより大半が失われてしまったが、1601年に当時の紀州藩主・浅野幸長により再建された。
興国寺
和歌山県日高郡由良町門前801
150年以上の歴史を持つ蔵でここでしか造れない伝統の味を
人の行き交う流通拠点として栄えた湯浅町。嘉永4年創業の「太田久助吟製(おおたきゅうすけぎんせい)」は、天保12年に建てられた蔵にて、現在も金山寺味噌を醸造している。蔵の柱には、「蔵つき酵母」が棲み着いている。この酵母により独自の味が生まれる。
「太田久助吟製」では、異業種から先代に弟子入りした六代目平野浩司さんが、伝統的な製法で金山寺味噌を仕込んでいる。麹の様子を手で感じながら、一粒ずつほぐしていく。
出来上がった金山寺味噌を手作業で計量し、パック詰め。この地域では自家製の金山寺味噌を造る文化があり、麹だけを販売することも。
和歌山の名物茶粥に金山寺味噌をのせて食べる。五代目当主と二人三脚で味噌造りをしてきた加寿代さんは「毎日、味噌を食べないと落ち着かない」と話す。ちなみに和歌山では、親しみを込めて茶粥を「おかいさん」と呼ぶ。
店は、重要伝統的建造物群保存地区の一角にある。観光客だけでなく、地元の人も足繁く通う老舗だ。
太田久助吟製
写真 吉田歩
取材・文 高田真莉絵
和歌山への翼
和歌山へは東京(羽田)などからANA便で関西国際空港へ。