細川護煕さん 私にとっての寂聴さん「不良のボーイフレンド?」〜寂聴さんと歩く京都vol.4
寂聴さんのいない京都 細川護熙
あれはまだ私が30代の頃でした。ふと面白そうだなと手にした艶な小説『京まんだら』にひきこまれました。作者は寂聴さん。美しい京都の祇園を舞台に四季の移ろいや4人の女性たちの恋もよう、そして芸・舞妓の生き方などが華 やかに織りこまれた、情緒豊かな世界でした。
それから時がたって、40代の半ば、熊本県知事をしていた頃、祇園のとある小料理屋のカウンターで初めて寂聴さんにお目にかかりました。「こんにちは」とご挨拶したのですが、お互い連客があり、それ以上の話はしませんでした。ところが、後年、再会したとき、その出会いをよく覚えておられたのです。「あなた、ビールじゃなく、日本酒を飲んでおられたわね」。驚きました。作家というのは、 そんな些細なことまで観察されているのか、とつくづく感心したものです。
それからまた時がたって、いまから5、6年前のことです。日本芸術院賞などを受けられた建築家、故・白井晟一氏の遺作として知られるしょうしゃな建物が京都の嵯峨野にありますが、事情があって、私にしばらくこの建物を預ってほしいという知人からの話があり、お引き受けしました。
不思議な縁というのでしょうか、そこからほんの百メートルほど行くと寂庵で、寂聴さんとのご近所付き合いが始まったというわけなのです。
その頃の私はといえば、お寺の襖絵を描いたりしていたので、月に2回ばかり京都に行く機会があり、お電話する と、声を弾ませ「ちょっといらっしゃい」と誘ってくださる。まだおてんとうさまの高いうちからシャンパンを持ち出して、お寿司をふるまっていただいたりもしました。
寂聴さんは私の妻、佳代子のことを気にかけてくださっていて、「佳代子さんはその後どうですか」がいつも第一声でした。「老々介護は大変だけど、認知症は必ずよくなります」とそのたびに励ましていただいた。
寂聴さんにお会いしたとき、政治向きのことはほとんどお話したことがありません。ただし、戦争や原発に対する思いは、語らずとも相通じるものがありました。私が 2014年に原発反対を掲げて東京都知事選に立候補した際には、わざわざ寒い中、京都から応援演説に駆けつけてくださった。いまご存命であれば、おそらくウクライナ情勢についても、私があの沢庵和尚の有名な言葉「百戦百勝するも一忍に如かず」―戦いはキリがない。それよりも戦わないこと が最大の勝利なのだ」という話などをしたら、「そう、その通りだわ!」と熱く話が盛りあがったことと思います。
寂聴さんは、私のやきものや書にも関心をもたれ、あるとき私がつくった信楽の五輪塔をお墓にしたいからと注文をいただいた。寂庵に据える場所は、横尾忠則さんが決められ、お墓の石には、なにか自作の句を彫りたいと愉しみにしておられました。もうひとつ、寂聴さんに購入していただいた私の書の作品に「狂人走不狂人走」という軸があります。江戸前期の臨済宗の名僧、清巌宗渭(せいがんそうい)が、先人の言葉からとったものらしく、世の中は一人の狂的ともいえる情熱を持った人間が走り出すと、世界もそれに動かされていくといった意味です。政治家時代から私はこの言葉が好きでしたが、寂聴さんも気に入られた。ときに魂をゆさぶるお騒がせ、冒険がなければ、 人生にいったいなんの意味が あるのか、と。
寂聴さんはこうも言っておられました。「何度、裏切られても私は不良が好き」。「狂人走……」の含意をそう捉えておられたのでしょうか。私も寂聴さんにとって不良のボーイフレンドだったのかもしれません。寂聴さんのいない京都は少しさみしくなりました。
細川さん作の五輪塔。幼な子ほどの背丈で小ぶりだが存在感がある。現在は寂庵の庭に。