「八丈島には何故“おいしい”が溢れているのですか?」島の林先生に聞いてみた―八丈島をいただきます-1
伊豆七島の中でもとくに八丈島にはご馳走が溢れている。いったい何故なのだろう? どうしてこの島は美味しいもので溢れているのだろう?その理由が知りたくて、最初の取材先として島の物知り先生(と勝手に呼ばせてもらうことに)、八丈島教育委員会の林薫さんに話を訪ねた。
「八丈島は約14万年前に噴火した東側の三原山から流れ出た溶岩と、約1.3万年前に爆発した西側の八丈富士から流れ出た溶岩がくっついてできた島です。噴火と噴火の間に10万年近くも間があるということは、それぞれの土壌が全く異なってきます。三原山のほうは火山灰が風化し土となり、堆積。そこに広葉樹の森が現れ、島を緑で覆い尽くした。広葉樹は保水能力が高く水持ちがよく、たくさんの川も流れている。豊かな土地は稲作を可能にしたのです。因みに江戸時代、伊豆七島で稲作をしていたのは八丈島だけです。
一方の八丈富士側は草っ原だけ。三原山のように耕作に適した土地も平坦な土地もない。だから牧草地にして牧場にした。牧場には海からの風に乗り潮が山まで吹付け、海水のミネラルや塩分、栄養素が牧草地に降り注いでいる。温暖で一年中青草があり、栄養豊かな牧草を食べて牛は育つのです。ミネラル分が多く濃厚な牛のミルクからは島オリジナルのチーズ、プリン、ケーキなど乳製品がたくさん作られるようになりました。しかしながら八丈富士側では牛は育っても、人間が育つものは作れなかった。八丈島は三原山の豊かな土地がなければ人間は暮らせていなかったはずです。
では人が島に渡ってきたのはいつ頃なのか?
縄文人の遺跡があることから約7000年前だといわれています。おそらく御蔵島から丸太船に乗って渡ってきたのではないかと推測しています。御蔵と八丈島のあいだには黒潮が流れてくるためきつかったと思われますが、当時の人は『海の向こうに島が見えるから行ってみよう!』と、新天地を求めて船を漕いできたのだと思います。魚介類など海からの豊富な海産物に恵まれ、山では自然薯(じねんじょ)や椎(しい)の実などを取りながら、やがて農耕が始まる。農耕が始まると定住が始まり、自給自足が成立していきます。その後平安時代あたりから里芋を作り始めた。正月は餅でなく里芋を食べる文化を持つことから、かなり古くから食べ始めていたはずです。温暖で雨が多い島の気候に里芋は適していたということもあります。
更に1720年頃にさつま芋が島に入ってきました。その後本格的に普及。田んぼを畑に変えてさつまいもをつくるようになった。さつまいもは栄養が高く、それ以降島では飢饉がなくなったのです。
栄養という意味では島に自生していた明日葉も栄養分が高かった。今のように茎や葉を食べるより、太くて食べごたえがありますから。つまり芋と明日葉が島の命を繋いできたともいえるのです。魚介類ももちろん食べてはいましたが、島の周りの海は年間を通して荒れている日が多く、当時は危険を伴って海のものを捕ってくるよりも山のものを多く食べていたはずです。
島の名産ともなった“菊池レモン”は、戦前にサイパンあたりの南国から菊池さんという人が島に持ち込み栽培を始めたのが始まりです。レモンは香り付けや香辛料のように使われるのが一般的です。しかし菊池レモンはそうではありません。大きくて皮ごと食べられるフルーツのよう。組合ではフルーツレモンと呼んでいますが、菊池レモンと同じものです。
今では基幹産業の一つともいえる漁業ですが、島の周囲の豊かな海域にはカツオやマグロなどたくさんの種類の魚が捕れていました。とくにカツオは鮮度を保ったまま築地に送るため、釣ったら船の上で〆めるということをよその漁港より早くから行い、高級魚として取引されていたのです。
ところが地球規模の気候変動と、黒潮の大蛇行によりカツオを始め捕れる魚介類の数が激減。今日のように金目鯛にシフトしていきます。因みにですが、海水温の関係なのか、伊豆七島の中で八丈島の魚は美味しいとされています。『八丈島では食えないよ』という魚でも他の島では『美味しい』と、食べられていますから」
三原山と八丈富士の関係。「土と砂利」という土壌の違いと周辺の海域の特徴を活かしつつ、島の外から多くの知恵と工夫を重ねる。それらを自分たち流に変えることで、小さな島の中からでも新しいものを生み出してきた。大袈裟にいえばガラパゴス化してしまった日本が学ぶべき姿も、そこにあるような気がしなくもない。
取材・文・写真 山下マヌー