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千羽鶴の心をビバリーヒルズに描く 飛騨高山からNYへ渡った美術家が想うロサンゼルス

千羽鶴の心をビバリーヒルズに描く 飛騨高山からNYへ渡った美術家が想うロサンゼルス

LIFE STYLE 旅の出会い

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才人が旅先で出会った忘れえぬ光景を綴る。今回は世界を魅了し続ける、いま、もっとも注目される現代美術家。

松山智一

1976年、岐阜県出身。上智大学卒業後、2002年に渡米。NY Pratt Instituteを首席で卒業。現在はニューヨーク・ブルックリンを拠点とし、絵画を中心に彫刻やインスタレーション、さらに大規模なパブリックアートを手がけることで、世界的に知られる。近年の主な展覧会は「Tomokazu Matsuyama: Morning Sun」(エドワード・ホッパー・ハウス美術館/2025年)、「松山智一展 FIRST LAST」(麻布台ヒルズ ギャラリー/2025年)、「Mythologiques」(ヴェネツィア/2024年)など

いくつもの思いが掛け算のように複雑に入り組む場所——、以前の僕にとって、ロサンゼルスとはそういう街でした。

二十代半(なか)ばから現在に至るまで、僕はニューヨークを拠点に美術界で活動しています。ですが、さらにその十数年前。多感だった幼少期を過ごしたのが、大陸の反対側の街・ロサンゼルスでした。レーガンが大統領だった、古き良きアメリカ。両親に連れられ小学生の僕が移り住んだ南カリフォルニアも、裕福な人は決して多くはないけれど、物価も安く皆が一様に明日を夢見ている、そんな場所でした。ちょうど“横乗り”カルチャーの黎明期で、多くの少年たちと同様、僕もスケートボードにのめり込みました。振り返ればロサンゼルスでの数年間は、飛騨高山生まれの小学生の人生を一変させた、まさに文化的原体験でした。

その後、日本に戻り東京の大学を卒業した僕は、24歳のころ改めて海を渡りました。美術家を志し、先に述べたように世界の美術の中心地・ニューヨークに移ったのです。当初はローラーコースターのような暮らしを送りましたが、やがて美術家として少しずつ発表の場を得られるようになるなかで、いつしか僕には「ニューヨークこそがすべて」で、ロサンゼルスへの思いはどんどん希薄になっていったのです。ところが……。パンデミックの少し前、僕が忘れかけた“第二の故郷”からオファーが届きました。ビバリーヒルズに新設される地下鉄の駅の建設現場にある巨大な壁に作品を描くというものでした。

この写真は2019年に完成し、いまもビバリーヒルズにあるパブリック・アートです。千羽鶴をモチーフにした作品で、タイトルは「Thousand Regards/Shape of Color」。

完成の瞬間は込み上げる思いがありました。なにより「誰かの願いを、コミュニティの皆が折り鶴を通じてともに祈る」という、日本人元来の思いやりの文化を、ロサンゼルスの人々が快く受け入れ、大事にしてくれたことが、非常に嬉しかったのです。

いまのような時代だからこそ、アメリカの内側にいながら、さまざまな差異を発信できる移民としての美術家の必要性、そんな自分の存在意義を改めて教えてくれたのも、ここロサンゼルスだったと思えるのです。

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