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ANA国際線就航40周年の軌跡 プレハブと“屋台カウンター”から世界的キャリアへ

ANA国際線就航40周年の軌跡 プレハブと“屋台カウンター”から世界的キャリアへ

ANA REPORT 対談

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「本当に感慨深いものがあります。よくここまで来られたなという思いです。それはやはり、多くのお客様が私たちを信頼し、ご搭乗いただいたからこそと、そう思っています」

立石文恵(ANA上席執行役員・空港会社担当)がしみじみと語るその言葉に、山岸由佳(ANA執行役員・客室センター副センター長)も神妙な面持ちで聞き入っていた。

今年3月、国際線就航40周年の節目を迎えたANA。いまや、日本をリードする国際線キャリアへと成長し、「SKYTRAX」「APEX」といった世界のエアラインを格付けする企業や国際機関からも、毎年のように高い評価を得るまでになった。

そこで今回はANAの国際線、その黎明期を知る二人の特別対談を送る。

成田空港第一ターミナルの“屋台”カウンターと“プレハブ”2階建てオフィスからのスタート

山岸由佳(ANA執行役員・客室センター副センター長:写真左)、立石文恵(ANA上席執行役員・空港会社担当)

――まずはお二人、それぞれの入社年と、当時のANA国際線の状況からお聞かせください。

立石:私は1988年、昭和63年入社です。配属先の成田空港で長らく旅客サービスを担当してきました。

山岸:私の入社は1991年です。成田空港支店の客室部に入りました。

立石:今回「入社当初の苦労話を」と事前にリクエストいただいてましたけど……。人って都合の悪いことは忘れてしまうものなんですよね(笑)。なかなか当時、苦労したエピソードが思い出せなくて。でも強いて言うなら、“後発キャリア”の悲哀みたいなものはあったかもしれません。

山岸:私も立石さんと同じで、都合よく忘れてしまえるタイプです(笑)。

当時、ANAは国際線定期便を運航し始めて2年ほどが経過していましたが……、まだまだ国内線のほうが断然、強いキャリアでした。国際線は、たしかまだ6路線、7路線しかなくて。毎日運航していない路線もありましたし。まさに“黎明期”ですね。

私たちは、成田の第1ターミナルにカウンターを構えていましたけれど。“後発キャリア”でしたから、海外のエアライン各社のカウンターがずらっと並んでいる、その間に本当にちょこっと、4つくらいしかカウンターがなく、実際のチェックイン時間になると、それでは全然足りないので毎回、オープンするときには“屋台”のカウンターを出し、クローズするときは、今度は他社さんに迷惑をかけないよう、また“屋台”を撤収する。そんなことを繰り返していたんです(苦笑)。

事務所も本当に手狭なところで、もう、人が入りきらない。徐々に社員が増えていた時期でしたが、事務所スペースは限られており、新入社員はオフィスに帰っても座る椅子がなくて、仕方なく廊下で仕事をしている、みたいな(苦笑)。そんな記憶がありますね。 

でも、山岸さんが入社したころは、もう少し国際線の路線も増えて、陣容も整ってきていたんじゃありませんか?

山岸:そうですね、私が入社したころは、まさに路線を拡大させているさなかという感じでした。でも、施設面では、入社時のCAたち客室部のオフィスは、いまでは想像もつかないと思いますけど、なんとプレハブでした。「N2ビル」と呼ばれていましたが、決してビルじゃない、2階建てのプレハブ(苦笑)。そこが私たちCAのオフィスで、そこから出発し、ターミナルにはバスで向かっていました。さらに、まだ(駐機)スポットもそんなに便利なところがあてがわれていなくて、オープンスポットだったりしましたので。ターミナルから機側へもバスで移動する。だからですね、他社のCAさんからはよく「ANAのCAさんは、どこから出てくるんですか?」なんて聞かれてましたね(苦笑)。

立石:山岸さんが入社されたころはまだ第1ターミナルでしたけど。やはり、どんどん手狭になってきていました。やっと第2ターミナルに移転したときは、もちろんカウンターも必要な数だけ用意できて、もう“屋台”のチェックインなんてことはしなくてよくなりました。本館とサテライト、二つのビルに、ファーストクラス、ビジネスクラス用のラウンジを二つずつ設置することもできて。お客様からは「ANAも、やっとここまで大きくなったんだね」というお声もいただきました。私自身、ここまで大きな設備を構えられるようになったんだ、国際線も軌道に乗ってきたんだと、感慨深いというか、すごく嬉しかったことを覚えています。

ロンドン・ヒースロー空港に並ぶANAの機体が2機…嬉しくて涙が溢れてきました

過去に活躍したボーイング747-400のギャレーにて、1992年。山岸由佳(右から2人目)提供

山岸:かつての1タミ(第1ターミナル)のときというのは、いまと同じで南ウイングでしたよね?

立石:そう、南ウイングでした。

山岸:私は、それがすごく印象深いんです。1980年代、中森明菜さんの『北ウイング』という曲がヒットしていて。ご利用になるお客様の間でも「成田空港といえば北ウイング」という感じで、そちらがメジャーだった。でも、私たちは南ウイング……、その“マイナー感”が「なんだかうちらしいな」と思っていました(笑)。いえ、決して卑屈な思いじゃないんです。常にチャレンジャーという立場のANAらしいなと思っていたんです。

軌道に乗ってきたころの、感慨深い思い出としては、少しあとになりますが、関西国際空港が開港したころのこと。関空―ロンドン便が就航したあと、ロンドンのヒースロー空港でANAの機体が2機、並んでいるのを見たんです。そのときは私、本当に嬉しくて、涙が出てきたのを覚えています。

当時はまだ海外の空港に行くと「ANA? どこの国のエアライン?」なんて言われてしまうことも少なくなかった。もちろん、日本の空港であれば、うちの飛行機が並んで駐機しているなんて珍しくもない光景なんですが、それが外地の国際空港に2機並ぶというのは、しかもあの、世界的なハブ空港であるヒースローで、それが実現した……。それはもう、万感の思いと言うんでしょうか、涙が勝手に溢れてきましたね。

――軌道に乗りつつあったとはいえ、長らく国際線は赤字が続いたと聞いています。

立石:はい。ANAの国際線は2000年代の前半まで、赤字が続きました。とはいえ、現場の人間的には“赤字だからしんどかった”というのはとくになかったと記憶しています。とにかく便を定時で運航することや、お客様に心地よくご利用いただくことに皆が集中していましたから。
ただ……、国際線というのは、国際情勢や社会情勢に本当に大きく影響を受ける。お客様の数も左右される。大きな震災があったり、SARSなど感染症の流行があったり、それにアメリカで発生した同時多発テロも……。

山岸:9.11ですよね?

立石:そう。そういった大きなことが発生したとき、お客様が一気に減ってしまうことを、私たちは幾度も経験してきましたよね。

山岸:私自身、お客様よりもCAのほうが多いフライトを経験しました。

立石:ありましたよね。「今日はCAさんのほうが多いですね」なんてお客様から声をかけられたり。搭乗口の業務も一人で十分、事足りてしまう。一人でブリーフィングに行って、一人で搭乗ゲートに戻ってアナウンスして、「お客様、どうぞご搭乗ください」とご案内して……。私が経験したなかでは、お客様がたったお一人というフライトもありました。たしか、アジアの都市のどこかへ向かう便だったと思いますが、あれはパンデミックのときだったか、同時多発テロのあとだったか……。とにかく、そういう状況がたびたび起こるのでは、赤字もやむをえなかったと。

SARSの時はキャビンにお客様がお一人…機内で運動会が開けるんじゃないかと

山岸:立石さんのお話しされたケースは、SARSのときかもしれないですね。あのときも、お客様が本当に少なかったですから。でも逆に、普段はお客様が大勢乗ってくださっていて、気持ちはあっても時間的、物理的になかなか難しいサービス、あると思うんです。ですから、そのようなときは、お客様が少ないからこそ、100%、いえ、120%楽しんでいただきたいと、懸命に接遇した思い出があります。パンデミックのさなか、移動することへの不安を抱えていらっしゃるときに、ANAにお乗りいただいてるっていうことへ本当に感謝の気持ちでいっぱいでしたから。

当時は大型機でも、搭乗されているお客様の数が一桁という状況もありました。それこそ、機内で運動会が開けるんじゃないかというくらい(苦笑)。「やりたいことがあったら何でもおっしゃってください、安全運航に支障がない限り、何でも対応いたします」ってお伝えして。そういうとき、飛行機に乗ってくださっているお客様というのは、きっと、ご事情があって移動されていると思うんですね。ですから、機内で過ごす時間だけは少しでもリラックスしていただきたい、そういうふうに考えたのを覚えています。

立石:たとえどんな状況でも、目の前のお客様をおもてなしする気持ちは、変わりませんからね。

山岸:はい。赤字だろうが何だろうが、目の前のお客様によりよいサービスをするというのが自分たちの仕事。それが、そのときは実を結んでないように見えるかもしれない、でも、自分たちのやっていることは間違っていないと、そう確信していましたから。果たしてそれが、この40年というANA国際線の歴史だと思います。(後編へ続く)

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