ANAが半世紀前から取り組むCO2削減 整備士が未来へ継ぐ「ウォーターウォッシュ」〜翼の流儀
真夜中の中部国際空港セントレア。旅客ターミナルから少し離れた場所にある駐機場には、翌朝の出番を待つ多くの航空機が、ひっそりと羽を休めていた。
そのなかに1機、ライトに煌々(こうこう)と照らされている機体がある。現在、ANAグループで運航している唯一のプロペラ機「DHC-8-400」だ。そして、その周囲では整備服に身を包んだ社員たちが、忙(せわ)しなく業務に当たっていた。
「基本的にこの作業の対象は、運航便として使用されている機材です。当日のフライトを終えた機体は、翌日のフライト前には作業を終えなければなりません。不具合などがあった場合は、当然そちらを解消するための整備が優先されるため、とても限られた時間のなかでの作業となります。必然的に、取り掛かるのは深夜ということが多くなっています」
作業に当たっていたうちの一人、ANAラインメンテナンステクニクスの中部整備部整備2課に籍を置く一等航空整備士・冨田亮(とみだりょう)は、そう言って額(ひたい)の汗を拭った。
彼らは機体の両翼にあるエンジンの前部から、先が二股に分かれた特殊なノズルを差し込み、エンジン内に何やら液体を注入している。
冨田の先輩社員で、同じく一等航空整備士の小野裕介(おのゆうすけ)が、作業の意味をこう説明してくれた。
「エンジンを継続使用していると、エンジン内部のコンプレッサー(圧縮機)に塵(ちり)や汚れが付着して、推力を生み出すために必要な燃料の量、そして排出されるCO2の量が徐々に増えてきてしまうんです。そのため、ANAでは定期的に航空機のエンジン内部を洗浄しています。私たちはこの作業を『ウォーターウォッシュ』と呼んでいます」
一例を挙げると、東京―ロンドン間のフライトの場合、必要とされるジェット燃料は約110トン、排出されるCO2は約360トンとされている。それが、エンジンのウォーターウォッシュを実施することで、消費する燃料を約1%削減し、CO2排出量はおよそ3.6トン削減できるという。
2021年から「ANA Future Promise」を立ち上げ、ESG経営を推進してきたANAグループ。「2050年度までに航空機の運航で発生するCO2排出量を実質ゼロにする」という長期環境目標を掲げ、持続可能な航空燃料「SAF」の搭載や、飛行中の空気抵抗を軽減するサメ肌状の「リブレット加工フィルム」の活用など、さまざまな取り組みをおこなってきた。だが、このウォーターウォッシュにいたっては、ANAはじつに半世紀前、70年代にはすでに導入をしていたという。
今回は持続可能な社会の実現のための“草分け的取り組み”を担う整備士たちに聞いた、未来への約束、その果たし方――。
ウォーターウォッシュは国内の4空港で実施
「そもそもは、エンジン故障の予防的措置であり、部品交換のサイクルを長くすることを第一義として、エンジンの洗浄を始めました。その副次的な効果として、燃費向上が近年、大きな意味を持ってきたわけです。かつては、現在のような水洗浄ではなく、微細に砕いたクルミの殻をエンジンに吹き付け、付着した塵や汚れを落としていたと、そのように聞いています」
小野はこう説明すると、冨田と顔を見合わせ「なにしろ昔のことなので、私たちも実際にそのクルミを用いた作業を目にしたわけではないんです」と頭をかいた。
小野の入社は2005年、冨田は2007年。つまり、二人が入社した頃はすでに、ウォーターウォッシュは整備士が担う、当たり前の作業の一つだった。ただし……。
「私がウォーターウォッシュを経験したのは2011年、この中部国際空港に転属になってからですね」(小野)
「私が以前勤務した伊丹空港では、ウォーターウォッシュはやっていなかったと記憶しています」(冨田)
現在、ANAが就航する国内53の空港のうち、ウォーターウォッシュを実施しているのは成田、羽田、那覇、そしてここ中部の4空港だけ。その理由を冨田は「環境的要因が大きい」と話す。
「水洗浄後、エンジンランナップ(エンジンの試運転)をする必要があります。一定以上の出力で、エンジンを回さなければならないんです。深夜の作業が多いので、騒音のことなどを考えると、都市部にある伊丹や福岡などでは難しいということなんだと思います。中部は海上空港ですからその点で恵まれていて、ウォーターウォッシュにうってつけの空港なんだと思います」
ボーイング737型機のウォーターウォッシュも実施している中部国際空港だが、特筆すべきは、全国の短距離路線で活躍中のプロペラ機、DHC-8-400についてだ。
DHC-8-Q400は、同サイズのジェット機に比べ機体重量が軽く、小回りが利くことで知られ、離島の空港など短い滑走路での離着陸も可能だ。また、軽量の機体は消費燃料も少ない。つまり、離島など搭乗客数が比較的少ない路線の維持と、CO2排出量の削減、その両方に同時に貢献できる航空機だ。そして、ANAが保有する24機のDHC-8-Q400のすべてのエンジン洗浄を担っているのが、ここ中部国際空港の整備士たちなのだ。
「飛行機が一度離陸して、着陸するのを『1サイクル』と言いますが、DHC-8-Q400の場合、洗浄剤を使用する『リカバリーウォッシュ』を800サイクルごと、水で洗浄する『デサリネーションウォッシュ(脱塩洗浄)』を400サイクルごとにおこなっています」(冨田)
1機のウォーターウォッシュを、おおむね3名の整備士がチームを組んで担当するという。
「リカバリーウォッシュではエンジン一基ごとに、洗浄剤を2回注入し、その後に水での洗浄を2回、さらにドライモータリングといって何も入れずに回し、それが済んだところでエンジンを回します。エンジンを熱くして、空調システムの配管のラインに入った水をきちんと除去するためです。DHC-8-Q400は左右に1基ずつエンジンがありますから、それぞれで同じことをおこないます。DHC-8-Q400、1機のウォーターウォッシュには、およそ3時間を要します」(小野)
「ANA全体の目標達成に大きく貢献できた」
先述したように、彼らの“職場”は伊勢湾海上に浮かぶ人工島。「ウォーターウォッシュには最適な環境」と胸を張っていた冨田だが、「冬場はかなりたいへんです」と顔を曇らせる。
「冬季の中部国際空港は、とにかく風が強い日が多いんです。そんな日は、機材のセッティングだけでもひと苦労ですし、洗浄中や、作業後の廃液回収の際、風が強いとどうしても水や洗浄剤、廃液を被ることになってしまう。真冬の深夜、水を被(かぶ)った体で寒風にさらされるのは……、正直かなり寒くて大変です」
しかし、そんな、彼ら一人ひとりの苦労とその成果が、乗客の目に触れることは……。
「搭乗された一般のお客様がウォーターウォッシュの効果に気付かれることですか?それは……、まずないですね」
こう言って、小野は苦笑いを浮かべた。だからといって、虚(むな)しさを覚えることは決してない。
「ANAとして、ウォーターウォッシュをおこなうエンジン台数の年間目標を定めています。昨年度、中部整備部ではDHC-8-400のウォーターウォッシュをほぼ毎日実施し、一年間でエンジン300台を達成しました。これは中部整備部が一丸となって成し遂げた成果であり、メンバーも大きなやりがいを感じていると思います。この数字は、ANA全体の目標達成に大きく貢献できたと自負していますし、そこには中部整備部一同、大きなやりがいを感じていたと思います」
力強くうなずいた冨田が、言葉を継いだ。
「SAFやリブレット加工フィルムなど、目新しい取り組みは注目度もとても高い。いっぽうの、このウォーターウォッシュは、昔からあるプログラムで、決して新しいものではありませんが、エンジンを1基洗浄すれば、どれだけのCO2排出量を削減できるのか、その効果は実証されていて間違いはないんです。お客様の目に触れることのない地味な作業かもしれませんが、それでも地道にコツコツと――。それが、私たちの使命だと思って毎晩、作業に当たっています」
たとえ小さな一歩でも、この道は間違いなく、ゴールへと続いている。