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年間100人の機長・副操縦士を審査する「査察操縦士」の仕事~翼の流儀

年間100人の機長・副操縦士を審査する「査察操縦士」の仕事~翼の流儀

ANA REPORT 翼の流儀

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「査察操縦士とは、国土交通大臣になり変わって、機長の知識、能力を判定する仕事。少々大袈裟な言い方をするならば、国を代表して運航の安全を担保する仕事と、私は自負しています」

羽田空港にほど近い場所にある総合訓練施設『ANA Blue Base』。その一角には旅客機のコックピットを模したフライトシミュレーターが、所狭しと並んでいる。そのなかの一つ、ボーイング787のシートに身を沈めた男性は、精悍な顔をまっすぐ前に向けたまま、こう言葉に力を込めるのだった。
山岸武司。現在、ANAに55人いる査察操縦士の1人だ。
彼の言葉どおり、査察操縦士とは航空法に則り国交大臣の指名を受けて機長ら操縦士たちの技能を審査する資格を有する、特別なパイロットのこと。
実際のフライトで、あるいはシミュレーターで、乗務員に運航上のミスがないか、目を光らせる。だが、審査するその相手は、同じANAの同僚たちだ。場合によっては顔見知りの同期や、ときには先輩に向かって「不合格」を言い渡さなければならない、つらい役回りでもある。
「そうですね、たしかに、よく知っている相手であればあるほど、つらいこともあります。私の判断が、その人を定期運航から離し、再訓練・再審査を強いることや、それが人生を左右してしまうことに繋がるかもしれない。でも、そこはきちんと割り切って、ドライに対応しています。それは、私の仕事が空の安全に直接繋がることだからです」

シミュレーターのコックピットのなかで、山岸の力強い言葉が響いていた。

初めて操縦桿を握った高揚感

「就職活動では、鉄道や商船など交通インフラを担う企業の総合職を目指していました」
35年ほど前を振り返りながら、山岸は「だから、自分が飛行機を飛ばすなんてことは、考えたこともなかった」と笑った。
「就活を始めて間もなく、たまたまANAが自社で養成する運航乗務員募集の求人広告を目にして。面接の練習がてら、試しに受けてみようかなと思ったんです」
軽い気持ちで受けた入社試験で、その後の人生を決定づける邂逅があった。実機の操縦桿を握る機会に恵まれたのだ。
「当時は適性検査の一環で、隣に教官が座って実際に小型双発機の操縦をさせてもらえた。もちろん、完全な素人ですから、離着陸なんてことはしません。ただ、まっすぐ飛ぶとか、少し旋回して進路を変えるとか。それを何日間かやって、適性があるか、技能の伸び代があるかを審査されるんです」
初めて操縦桿を握った瞬間、それまで「考えたこともなかった」仕事が、一生をかけて取り組みたい明確な目標になった。
「自転車に初めて乗れたとか、オートバイとか自動車とか。どんな乗り物でも、最初に乗ったときというのは、誰しも高揚感を覚えますよね。でも、飛行機の操縦桿を握ったときというのは、それをはるかに凌ぐものがあったんです。それこそ、雷に打たれたような(笑)。『これを将来の仕事にできたら、自分はどれほど幸せだろうか』と、心底、そう思ったんです」

果たして無事、試験をパスした山岸は1989年、ANAに入社。3年半の訓練を経て、念願のパイロットになった。エアバスA320などの副操縦士を経て2001年、機長に昇格。
2006年からは、後進を指導する訓練教官を務めた。

「教官になったとき、かつて私を指導してくれた教官からアドバイスをいただいたんです。『教えるということは、教わるということだよ』と。実際に自分が教官を始めてみて、その言葉の意味するところがよく理解できました。人にものを教えるためには、自分自身がよく理解していなければなりません。そのための準備を怠ることもできません。なるほど、教えることは教わることだと、身に沁みてわかりました」

指導したなかに1人、とても印象に残る訓練生がいた。
「とても優秀な訓練生でした。彼の局地飛行の訓練と審査を南西諸島の下地島で行った際のことです。審査当日、彼は大きなミスをして最初の着陸がうまくいかず、やり直したんです。技能審査員は彼の合否をすごく悩んでおられた。教官である私は、別室でそれまでの訓練状況を聞かれ、『この訓練生の基本的な能力にはなんら不足はありませんし、修正能力も高いので彼なら安全です』と伝えました」
技能審査員との別室での協議は20分近くに及んだという。
「その間、待たされていた訓練生は不安だったと思いますよ。ひょっとしたらダメかもしれない、そう思っていたのでしょう。技能審査員から『合格です』と告げられた瞬間、彼は人目も憚らずボロボロ涙を流して喜んで。そんな彼も、いまでは立派なキャプテンです。空港の事務所でたまに会います。会うと、あの日のことを思い出したりします」
彼は現在、山岸が乗るのと同じ、ボーイング787の機長を務めている。
「だから、もしかしたら私の査察を受けることもあるかもしれませんね。また、近い将来、彼が査察操縦士として、私を審査するなんてことも十分ある。それぐらい優秀な操縦士です」

操縦士は日々、アップデートが必要

教官になって12年後の2018年、山岸は査察操縦士に任命された。
「機長候補者を選定するときと同様に資格審議会というのがあって。人格、識見、そしてもちろん査察操縦士としての技倆(ぎりょう)、その3つの観点から、会社が判断し選ばれます。私自身は、人を育てるのと違って、人が人を審査する難しさや不安を感じてはいました。でも、誰もができる仕事ではないと自分に言い聞かせ、お引き受けしました」
こうして山岸は、機長としての乗務をこなしながら、査察操縦士の任についたのだった。

「査察操縦士が乗務員を審査するのは主に4項目。操縦士としての知識、技能、コミュニケーション能力、さらにプロフェッショナルとして技倆を維持する努力ができるかといった基本的なポリシーも重要な項目です」
1年間に100以上の査察を行うという山岸。実際のフライトでは操縦席の背後に陣取り、神経を尖らせながら乗務員の一挙手一投足を注視していく。
「運航の出発から到着まで、オペレーションを分析すると、概ね400の行程があるんです。さらに、それぞれの行程には10ほどの操作が必要なんです。つまり、1フライトに4000ほどの操作があるわけで、その一つひとつを正確に積み上げて、フライトを完遂することができているかを、チェックします」
ときには、舌を巻くような素晴らしいフライトに巡り合うこともある。
「乗務員の多くは、審査に張り切って臨んできますから。査察をしている私自身が今後の乗務の参考にしたくなるような、勉強になるいいオペレーションを目の当たりにすることも少なくないんです。これは、査察操縦士の役得でもありますね」

いっぽうで、些細なミスをしてしまう操縦士もいる。
「4000の操作のなか、一つでもミスを見つけたら、私はそれをきちんと評価、判定します。たとえ小さなミスであっても見逃すことは決してない。そして、フライト直後に運航を振り返るデブリーフィングで、ミスの根本原因を手繰り寄せるように探っていきます。この操縦士は準備段階に足りない点があったのか、または準備以前に知識の欠落があったのだろうか、と。そうしたうえで、1年に1例あるかないか、ごく稀なケースではありますが、不合格を申し渡すことも、残念ながらあるんです」
不合格となった操縦士は、いったんは乗務を離れなくてはならない。再訓練、再審査を経て、ふたたび飛べるようになるまでは、最短でも1ヶ月を要する。
「昔は操縦さえうまければいい、という雰囲気もありました。ですが、最近は飛行機自体がどんどん発達し、オペレーションも日々、複雑化していて。我々操縦士も常にアップデートが求められます。また、乗務員はコミュニケーション能力も重要。例えば機長の場合、問題が生じたとき、副操縦士が速やかに助言できるか、気づいたことをすぐに言える雰囲気をいつも作っているか、そういった部分が近年、とても重要視されています。コミュニケーション能力が欠けているような人の場合は、半年や1年といった少し長い期間、継続的な指導を要する場合もあります」

判定を下した相手から、思いがけない反応が届いたこともあった。
「キャリア十数年というベテランでした。デブリーフィングの最後、私が厳しい判定を伝えると、相当ショックを受けたようで、言葉をなくしていましたね。でも、その日の夜遅くに、その人からメールが来たんです」
メールには、こんな文章が綴られていたという。
〈自分の至らなさを痛感しました。今後は懸命に努力し足りない点を補っていきます〉
そしてメールは、こう締め括られていた。
〈ありがとうございます〉
振り返る山岸の顔は、どこか誇らしげに見える。
「少し、驚きました。私が下した判定に対して、そのような感謝の言葉が返ってくるなんて、思ってもみませんでしたから。査察操縦士冥利に尽きるな、と。そして、改めて思いました。たとえ相手が同僚であろうと、厳しい目を持たなくてはいけないと。そして、視線の先には常に安全運航を見据えていなければならないんだと。そのときのベテラン操縦士は、メールの言葉どおり努力して、いまはまた、ちゃんと飛ぶことができています」

最後に「乗務員の資質としていちばん重要なものは?」と質問すると「プロフェッショナルとして仕事を続けるという意志、そして、自分自身を律する気持ち」という答えが返ってきた。
「知識や技能のアップデートを、現役でいる間は常に続けていかないといけません。しかも、年齢とともに体力や記憶力はどんどん低下していく。若いころは階段を一段ずつ上がっていくように勉強していればよかったものが、この年になると下りのエスカレーターを逆走している感覚です。私はまもなく58歳。できればあと10年は、懸命にエスカレーターを逆走しながら、私も飛び続けたいと思っています」

撮影/加治屋誠 取材・文/仲本剛