地中海の国マルタの誇り 4万人のオスマン帝国軍を千人騎士団で撃退した策とは
地中海の小国マルタの礎となったのは、1565年の「大包囲戦(The Great Siege)」だ。
オスマン帝国が、覇権の空白地帯ともいえる地中海を「取りに行くか」と、4万人の大軍で攻めてきたのは、世界史の授業で習ったとおり。それに対し、聖ヨハネ騎士団はわずか1000人足らずという、多勢に無勢の状況で応戦した。

当時、飛ぶ鳥を落とす勢いのオスマン帝国 VS 小島の騎士団――どう考えても敗戦濃厚。しかしながら、大方の予想を裏切って、騎士団チームが勝利する。ここで浮かぶ疑問は「マルタ騎士団って、そんなに強かったんだっけ?」ということだ。
実は騎士団は当時「剣と包帯を持った男たち」と呼ばれていたほど、医療技術にも長けたエリート集団。単なる武闘派ではなかったのだ。「剣と包帯」…つまり、負傷→治療→復活して再び戦闘参加、というループを繰り返すことで、人的ハンデを克服していた。その執念と誇りでオスマン軍を撃退したのである。
当初、騎士団は Knights of St. John / Knights Hospitaller という名称を持ち、軍事的防衛と医療奉仕の両方を担う「騎士兼看護師」の役割を果たしていた。この事実を知れば、彼らの勝利にも合点がいくのではないだろうか。

オスマン帝国軍を退けることには成功したものの、騎士団は「このままでは次の戦はもたない。次の襲来に備えねば」と決意する。そして新たな防衛拠点として目を付けたのが、当時「シベラス岬」と呼ばれていた、三方を海に囲まれた天然の要塞だった。
1566年、騎士団総統ジャン・ド・ラ・ヴァレットは「ここに新都市を築く」と宣言。彼の名を取ったヴァレッタの街の建設が始まる。



グランドハーバーを見下ろすこの半島は、敵の侵入を防ぐ要塞にはうってつけだった。さらに、碁盤の目状に整備された街路は、防衛機能だけでなく、疫病防止にも一役買うという一石二鳥の設計。防衛と快適さを両立させた街づくりは、まるでラ・ヴァレットに不動産開発の才能まであったのではないかと思えるほど画期的なものだった。ラ・ヴァレットは戦略家であり、都市建設のビジョナリーでもあったのだ。
当時とほぼ変わらないヴァレッタの街を訪れ、石畳の道を歩けば、戦略と知恵が交錯したこの都市の誕生秘話が、足元の隙間から聞こえてくるようだ。

取材・文 山下マヌー
写真 尾嶝太
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