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「ウインドサーフィン世界大会を日本で開催」機長たちの奮闘~翼の流儀

「ウインドサーフィン世界大会を日本で開催」機長たちの奮闘~翼の流儀

ANA REPORT 翼の流儀

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「スピードに乗ると、ボードが浮き上がり海面を滑走するんです。その瞬間は、風とひとつになったかのような爽快感で。一度体験したら、もうやめられなくなります」

神奈川県横須賀市。津久井浜のビーチ沿いにあるウィンドサーフィンショップで、藤本太郎はウインドサーフィンの魅力についてこう語ると、少年のような笑顔を見せた。

毎年、プロのウインドサーファーがヨーロッパを中心におよそ10カ国を転戦する「PWAウインドサーフィンワールドカップ」。藤本はボーイング767の機長という仕事に就きながら、この大会を日本に誘致。今年5回目を迎えた『ANAウインドサーフィンワールドカップ横須賀・三浦大会』の開催を実現させた立役者だ。

なぜ、ANAの機長がウインドサーフィンの大会を誘致するに至ったのか――。

今年も11月10日から5日間、世界の〝トップライダー〟たちが熱戦を繰り広げる津久井浜で、大会開催までの経緯と、その苦労を聞いた。

「日本のウインドサーフィン人口を増やしたかった」

「当時、私はANAのウインドサーフィンクラブの部長をやっていましたが、なかなか若い人が入ってこないという状況が続いていた。日本のウインドサーフィン人口は減少傾向でした。その状況をなんとかしたい、ずっとそう思っていたんです」

そもそもの動機を、藤本はこう語った。

1960年代後半のアメリカで誕生し、1970年代初めに日本に上陸したウインドサーフィン。1980年代後半、バブル景気に沸く日本でもブームが巻き起こった。藤本が初めてボードに乗ったのも1990年、20歳のころだ。

「そのころはANAのウインドサーフィンクラブも、100人ほどの部員がいたそうですが。私が部長を務めていた2015年当時は20名ほど。若い人に入部を勧めても、『ウインドサーフィンってなんですか?』なんて答えが返ってくる始末で(苦笑)」

そこで思い至ったのが、すでにANAが導入していた企業内社員提案制度「バーチャルハリウッド」にエントリーし、大会誘致を提案することだった。

2015年、藤本と彼の想いに賛同した10名ほどのメンバーが活動を開始。だが、当初は社内の反応はいまひとつだった。

「宣伝部門にワールドカップのスポンサーになることをプレゼンテーションしたんですが……。私の説明はなかなか響きませんでした」

藤本の提案を、腕組みしながら聞いていた部長は、終始、難しい顔を浮かべていた。

藤本は述懐する。

「厳しい反応はいたしかたなかったと思います。なにせ『これだけの宣伝効果があります』と主張できるような、説得力ある数字がひとつもなかったですから」

それでも藤本は「一度、始めたことは簡単に投げ出せない」と継続することを決意。しかし、人気低迷中のウインドサーフィンに、上層部を納得させられるだけのデータがないのも事実。なにより当の藤本自身、プレゼンが大の苦手だった。

思案に暮れる彼の頭に、バーチャルハリウッドの研修で教わった、ある言葉が浮かんでいた。

プレゼンの代わりに一冊の雑誌を「自作」

バーチャルハリウッド制度では、外部から講師を招き、提案を実現するためのテクニックなどの研修を受ける。そのなかで、とくに印象に残っていたのが、「成功のイメージを共有することが大事」という言葉だった。

「『実現したらこんな成果が得られる』というのが、成功のイメージだと考えました。そこで、もしワールドカップが開催できたら、こんなふうに特集が組まれるであろうという架空の、雑誌体裁の企画書を作ろうと、思いついたんです」

インタビュー記事や写真を組み込んだ専門誌のような体裁を目指した。記事はメンバーと分担して作成。裏表紙には、スポンサー候補として考えていた京浜急行電鉄の広告まで載せる、手の込んだものにした。

「これを見て『面白い』と思ってもらわなければいけない、そのためには見栄えも重要と考えていた。でも、自分一人で作ったものは出来がイマイチで。印刷会社に勤務経験のある妻が、見かねて手伝ってくれました」

こうして、本物の専門誌と見まがうばかりの企画書ができた。

「完成した自作の〝雑誌〟を秘書の方にお願いして、こっそり役員の机に置いてもらいました。苦手な対面プレゼンテーションを避ける苦肉の策でもあったのです」

作戦は奏功した。高いクオリティの自作雑誌を作り上げた創意工夫と熱意は上層部を動かし、ANAグループ内には共感者が増えた。こうして「ワールドカップ誘致」という提案は、ついに実現することになった。

航空会社だからこそ乗り越えられた「窮地」

「バーチャルハリウッドに提案された、ウインドサーフィンの大会誘致が実現しそうだということは聞き及んでいました。でも、そこにはまだ大きな課題があると、私は思っていたんです」

こう話すのは、根室中標津空港ビルの代表取締役専務・三澤文良。1986年にANAに入社し、長く整備部門で仕事を続けてきた。一方で、学生時代にウインドサーフィンを始め、競技者として活躍。1984年の世界選手権の日本代表や、オリンピックの強化選手に選ばれるなどの輝かしい経歴も持つ。海外遠征の経験も豊富な三澤は、「道具の輸送がネックになるのでは」と予見していたのだ。

「ワールドカップで競技するプロ選手は道具の量も格段に多い。選手一人につきセールは6セット、ボードは3枚。大会に参加する五十数名分のそれらの道具を、短いリードタイムで一気に運んでこなくてはなりません」

大会の運営母体であるPWA(The Professional Windsurfers Association)が藤本たちに提示したのは、直前の韓国・蔚山大会から、わずか中2日で開幕するという日程だった。

「正直、絶望的な状況でした」と藤本。三澤も「物理的に不可能だろうと思った」と振り返る。

この窮地を乗り越えられたのは「偶然にも私たちが、エアラインの人間だったから」と三澤。藤本もこう言葉を継いだ。

「たまたま、成田―ソウル間をANAの貨物便が就航していたんです。そこで急遽、貨物便のスペースを確保しました」

それでも、不安は残った。

「ソウル支店の貨物の担当者に、重量や寸法を数字で知らせても、いまひとつ伝わっていない感覚があった。万一『載せきれませんでした』では開催は危ぶまれます。なので、私と三澤さんや他のスタッフと一緒に、ウインドサーフィンの道具一式をソウルまで運んで行って。『これの何倍、何十人分を積載することになりますから』と、担当者に、見て触って理解してもらおうと努めたんです」

こうして藤本たちは2017年、ワールドカップ開催にどうにか漕ぎ着けることができた。しかし、開幕後にも問題は生じた。

「事前の情報では、大会の初日からいい風が吹くという予報だったんです。当日、会場に来た取材の方たちにも『きっと迫力ある画が撮れますよ』なんて言っていたのですが……」

2017年5月11日、ワールドカップ初日の津久井浜に、風は吹かなかった。

「風待ちのイベントを事前に用意したりはしていましたが、やっぱり風が吹かず、競技が始められないのはつらい。あまりにつらくて、運営船に乗せてもらって、沖に逃げ出しました(苦笑)。でも、その沖合から、浜に大勢のお客様が来てくださっているのが見えたその瞬間は、感無量な、達成感が込み上げてきたんです」

自嘲して笑う藤本。だが、日本ウインドサーフィン協会、京浜急行電鉄、それに地元自治体と手を携え、そして、地元の多くのボランティアの協力も得て開催した大会は1年目から、3万人もの観客を動員、大成功だった。

三澤はウインドサーフィンそのものの進化にも期待を寄せる。

「道具のイノベーションが進み、フォイルという水中翼が導入されました。フォイルはボードを飛行機のように浮かせてほとんどの風速で飛んで走ることができます。日本でも十分、PWAの大会をやっていける手ごたえを感じています」

「当初は『空港のない神奈川県で、なぜANAがやるの?』という思いが、ANAグループの社員のなかにはあったと思います。でも、1年目、2年目と続けるなか、本当に地域の方々に愛される大会になってきて。ANAグループの地域創生の柱となる大会になり、地域創生を担うANAあきんどとしてもとても大切な大会になりました」

こう語るのは、21年から大会運営に参加した、ANAあきんどの諏訪自子。

2017年から開催を続け、来場客数も右肩上がりに増加。2019年には横須賀市の隣、三浦市も参加し、さらに規模は拡大。目標の7万人を大きく上回る8万8000人が来場するまでに。

ところが翌2020年。世界はパンデミックに襲われ、ワールドカップも、各国の大会が軒並み中止に追い込まれた。日本大会も2020年、そして諏訪が運営に参加した2021年と、2年続けて開催できなかった。そして昨年……。諏訪は言葉に力を込めた。

「私たちとしては、せっかく盛り上げてきた大会ですから、一刻も早く再開したい思いでいました。ただ、再開できたとして、本当に選手が来てくれるのか、また入国制限という事態になりはしないかと、ギリギリまで迷いました。それでも、やはり地域の方たちの社会活動再開の起爆剤になれるのではないかという思いが、強かったんです」

果たして、昨年11月。3年ぶりに津久井浜にワールドカップが戻ってきた。

「駅からの商店街、全てのお店が大会のポスターを貼ってくださって。地元の方が楽しみにしてくださっているのが実感できました。会場に足を運んでくださったお客様からは『大会の再開をずっと待ってました』という声も多数いただきました」

来場客、それとオンライン観戦した視聴者数を合わせると、10万もの人たちが、迫力あるトップライダーのレースを楽しんだのだ。藤本は言う。

「世界に挑戦する若い選手が増えてきました。しかも、上位を狙える可能性のある選手も出てきたのです。これはウインドサーフィンの世界レベルの大会が身近になったことが、寄与しているかもしれません」

こう話す藤本の顔は、どこか少し誇らしげだった。

撮影/水野竜也 取材・文/仲本剛