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日本人828人…「新型コロナ」緊急プロジェクト舞台裏~翼の流儀

日本人828人…「新型コロナ」緊急プロジェクト舞台裏~翼の流儀

ANA REPORT 翼の流儀

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2020年1月28日――。「武漢から日本人が帰国」というニュース速報が流れた。新型コロナウイルスの感染が広がる中国・武漢から帰国のチャーター便を運航したのはANA。まだ感染症の正体も判然としないなか、中国、日本の最前線で任務にあたった二人が当時を回想する。

「早く皆さんを日本に帰さないと、という気持ちでした」

「都市封鎖はもちろん、そこから救援チャーター便を飛ばすなんてことも初めての経験ですから。不安はありましたが、無我夢中だったというのが正直なところでした」
初冬を迎えた羽田空港第2ターミナル駐機場。出発を待ち整然と並んだ飛行機が、小春日和の柔らかな陽を受けキラキラと輝いていた。そんな、穏やかな窓の外の光景に目を細めていたスーツ姿の男性は、改めてこちらに向き直ると、こう言葉に力を込めたのだ。
20220年1月〜2月。日本政府の要請を受けたANAは、新型コロナウイルスの感染が世界で最初に広がった中国・武漢から、邦人救出のためのチャーター便を5便運航。日本人とその家族ら、計828人の帰国を支援した。現地で搭乗を指揮したのが当時、武漢支店空港所長だった鶴川昌宏(現・ANA成田エアポートサービス オペレーションマネジメント部長)だ。「一刻も早く、皆さんを日本に帰してあげたい、その一心でした」

いっぽう、同じ羽田空港第2ターミナルのサテライト。国内線の搭乗を待つ人たちが行き交うロビーを見回しながら、その女性は静かな笑みを浮かべていた。
「私は普段、国際線の担当なので。ここに足を踏み入れるのは、あの日以来のことなんです」
こう口を開いたのは、ANAエアポートサービス 旅客サービス部業務推進課マネジャー・竹野真美。竹野は2020年1月、武漢からのチャーター便を受け入れる準備に追われた一人だ。彼女の今いるサテライトは、チャーター便で帰国した人たちを迎え入れるための、急ごしらえの国際線ターミナルとして活用された場所だ。
「関係各省庁の方々と、まさに今いるこの場所でブリーフィングを行い、あの47番搭乗口の前に入管手続きのデスクを置いて、その後ろ、48番のところが税関で……。でも、この穏やかな景色が、このサテライトの本当の姿なんですよね。この姿が、この先もずっと続くことを願っています」

まだ、感染症の正体も判然としないなか敢行された、前例なき緊急プロジェクト。双方の空港で、最前線に立った二人に話を聞いた。

突然の都市封鎖

「最初はその前年、2019年の12月初旬でした。医療関係者の夫を持つ現地採用の中国人スタッフが『なんだか妙な病気が流行り始めているようです』と教えてくれて。でも、そのときは、さして気に留めることもなかった。まさか、その後にあんな事態が巻き起こるなんて、想像すらできませんでした」
ことの始まりを、鶴川はこう述懐した。やがて、市中でも「謎の肺炎が流行している」と囁かれ始め、年が明けると中国当局も「新型肺炎の感染者が見つかった」と発表。だが、この時点での感染者はまだごくわずかで「人から人への感染はない」と、当局からの発信もミニマムな表現に終始されていた。しかし、事態は一変する。1月23日、朝5時。宿舎で目覚め、枕元のスマートフォンに目をやった鶴川は、思わず驚きの声をあげた。
「な、なんだ、これは!?」
画面に映し出されていたのは「封城」の2文字だった。
「私は前年の4月に着任したばかりで、中国語はあまりできなかったのですが、その単語のものものしさだけは理解できました。慌てて現地のスタッフたちに連絡をとると『今日、午前10時から街が封鎖される』『出勤できません』と。大変なことになったと思いました」

その当日も、武漢発成田行きの便があった。
「9時30分発なので、その便だけはなんとしても出さなければいけない、そう考えました。ご搭乗を予定しているお客様がいますから」
街が封鎖されてしまえば、市内の交通機関もすべて止まる。その便を定刻に送り出せたとしても、鶴川はもちろん、ほかのスタッフたちも帰宅が困難になるのは明らかだった。だから、複数のスタッフが「出勤できない」と話したのだ。鶴川はギリギリまで彼らを説き伏せ、出発に必要な人員を揃えた。
努力の甲斐あって、成田行きの便は封鎖目前に無事出発した。
夕方、ひと気のなくなった空港ロビーを見回っていると、すぐに軍服姿の男性に呼び止められた。IDを見せたものの「すぐに帰宅しろ!」と厳に命じられたという。
「いつもお願いしていた運転手さんが機転をきかせ、ある意味、危険を冒して駐車場で待っていてくれたおかげで、なんとか帰宅できました。でも、普段は渋滞が絶えない道路を、このとき行き交う車はゼロ。唖然としました」
多くの日系企業が進出している武漢。封鎖が実施された時点で、武漢のある湖北省には数百人の在留邦人がいた。そして、自宅待機を余儀なくされていた鶴川らのもとに、現地日系企業を束ねる商工会などから、内々に連絡が入る。
「なんとか、帰国便を飛ばしてくれないだろうか」
同じころ、同様の打診が外務省からANAにも。こうして、国家的プロジェクトの担い手としての白羽の矢が立った。北京から急きょ、武漢入りした日本大使館の職員とともに、鶴川は慌ただしく準備に取り掛かった。

航空会社の「使命」

「あれが何日のことだったのか、はっきり覚えていないんですが。武漢に向けて弊社がチャーター便を出すという一報を受けて、社内が一気に騒がしくなり、一丸となったのは、覚えています」
竹野は少し誇らしそうに振り返った。武漢行きの第1便が出る前日の27日の朝。羽田空港にあるオフィスに出勤すると「チャーター便の準備で今日の終業は遅くなる」と知らされた。
「具体的には27日深夜に、現地に運び込む大量のマスクや手袋などの支援物資の積み込み作業をしたり。あとは、武漢の空港の人手が足りていないということで、第1便に乗る予定のお客様全員の搭乗券を、羽田で発券したりしました」
当初、チャーター便は28日早朝に羽田を発つ予定だった。飛行時間は4〜5時間。昼に武漢に着いた飛行機に帰国者を乗せ、夜には羽田に戻ってくる段取りだ。
「ところが、28日未明になって『第1便は予定通り出発できない』と連絡があって。真夜中、寒いなかで積み込み作業をしていたスタッフら全員で落胆したものでした」

竹野がこう振り返った場面。武漢の鶴川はANA同様、現地に就航している別の海外航空会社の職員から、こんな言葉を聞いていた。
「市民をここまで閉じ込めている当局が昼日中、外国人を大挙して移動、帰国させるとは考えにくい」
その予想は的中。チャーター便の発着は深夜に限定されることに。
「第1便の飛行機が武漢に到着したのは28日の23時過ぎ。ロビーには、200人ほどの日本人と、同じく米国向けチャーター便に乗る米国人で、かなり人が多かった。でも、中国当局は感染拡大を恐れたのか、検疫、イミグレーションとも、わずかに一人ずつしか人員を配してくれなくて。お客様の出国の手続きには、ものすごい時間を要しました」
さらに、感染防止を理由にロビーは空調が切られていた。
「外は氷点下、ターミナル内の気温もせいぜい5度ほど。毛布を皆さんにお配りして寒さを凌いでいただきました。印象的だったのは、そんな状況にもかかわらず、イライラした態度をとるお客様が一人としていなかったこと。皆さん、緊張した面持ちで、粛々と順番を待っていました」
チャーター便はこの第1便から第3便まで、3日連続で飛んだ。その3日間、鶴川の睡眠時間はトータルでわずか3時間ほどだった。
「空港でお客様を送り出すのはもちろんですが、現地の検疫や税関の人たちとの調整も大変で。でも人間、眠らなくてもなんとかなるもんですね。それだけ、気持ちも張り詰めていたのかもしれません」
見ているのが辛くなるようなシーンも、目の当たりにした。
「お客様は搭乗前に体温を測定、発熱が認められると中国の検疫官が搭乗を許可しなかった。なかには搭乗目前、ようやく帰国できるという矢先に、呼び戻された人も。項垂れ、トボトボと列を離れていく背中は本当に寂しそうでした」
同じ搭乗口周辺では、忘れ難い嬉しい体験もした。
「飛行機に乗り込むお客様からは、たくさんの温かい言葉をいただきました。なかには『あなたは帰らないのか?』と聞いてくださる方もいて。『まだ仕事がありますから』と答えると、たいそう驚かれて。そして、こう言ってくださったんです。『必ず元気で、生きて帰ってきてください』。それは、もう本当に……胸に迫るものがありましたね」

第1便の運航から18日後の2月15日深夜。最後のチャーター便が武漢空港を離陸。その機内には鶴川の姿もあった。
「嬉しいとか、ホッとしたという気持ちにはなれませんでした。湖北省出身者とはいえ、部下たちを残しての一時帰国でしたから。自分だけ帰ってしまって本当にいいのか……、心残りの帰国でした」
相変わらず睡眠不足の日は続いていた。しかし、気持ちは昂ったまま、まんじりともせず夜明けを迎えた頃、飛行機は日本の上空に差し掛かる。
「何げなく窓の外に目を向けると、すごく綺麗な富士山が見えたんです。何回も飛行機には乗ってますし、機上から富士山を眺めたことだって何度も……。でも、あのような気持ちが込み上げてきたことは、初めての体験でした」
朝陽に輝く富士山を見つめながら、鶴川はつぶやいていた。
「日本に、帰ってきたんだな」

チャーター便のプロジェクトを終えたのちも、竹野は同じ部署に在籍している。仕事の内容に変化はなくても「気持ちの部分では大きく変わった気がする」と話す。
「本当に全てが、非日常でした。その中で、本当にたくさんの方々がサポートして飛んでいるということ、そして公共交通機関としての航空会社の使命というものを、改めて強く感じました。その後のコロナ禍で飛行機が飛ばなくなって、不安を抱えた後輩にも『公共交通機関として社会に貢献している』ことを伝え、励ましてきたつもりです」
いっぽう、同年9月に武漢に戻った鶴川は翌2021年春に異動に。現在は成田空港で働いている。
「よく聞かれるんです。『大変な経験をしたわけだが、また海外勤務に行きたいのか?』と。即答ですよ、『はい!』と。それほど、得難い経験をさせてもらえた、自分を成長させてもらったと、そう自負しているんです」

鶴川、そして、竹野。二人の和やかな笑顔に、使命を果たした者の矜持が、垣間見えた気がした。

撮影/加治屋誠、取材・文/仲本剛